私の生まれは、鹿児島県の南端で沖永良部島です。父親は山羊の様に顎鬚を生やし、母親は卵顔の京美人で、5人兄弟の末子として額の広い男の子として生まれました。名前の基はキリスト教の基で、彦は両親の尊敬する賀川豊彦先生の彦を取って基彦と付けたそうです。現在はキリスト教とは、程遠い生活を送っています。
鹿児島県 沖永良部島地図
小学校3年まで、夏に成ると(宮本輝の蛍川)の様な、蛍の乱舞いを体経験し、鰻採り、魚釣り、もずく蟹などを採って過ごして居ました。 小学校4年の時に、直ぐ上の豊博兄さんが心臓弁膜症の手術の為に、一家上げて神戸に移り、その1年後に西宮市に移転しましたが。
兄の手術は、賀川先生の紹介下さった川島先生が、アメリカ留学の為に先生が帰って来るまで延期に成りました。 私は中学3年間、新聞配達を朝・夕配達し。高校1年では、朝刊を配達しながら柔道部で、柔道の稽古をしていまし。そんな或る日の真夜中に、親父の独り言を聞いてしまった。『疲れた……死にたい!』私は翌日退部届を出し夕刊も配達する様にしました。親父からは、何故柔道部を止めたのか聞かれましたが、理由は言えませんでした。
その年の12月に、親父は会社から帰る成り頭が痛いと言って、倒れてしまい、脳梗塞で入院して1週間後に亡くなりました。 (マエダ家の怪談①火葬場から家に、お骨を持って帰って一息ついてから、テレビのスイッチを入れると、プッツンと音を発ててテレビが切れてしまいました。……以後我が家では、家族が亡くなる度にテレビが切れるのです。)同様な経験の在る方教えて下さい????????
高校1年の3学期、親父が亡くなり経済的にも苦しくなり、条件の良いアルバイトを探していると、クラスの友人が鉄道弘済会に新聞を朝・夕運ぶ仕事を紹介してくれて、御かげで貯金も出来る様に成り、学生生活に余裕が出来ました。
高校2年の春から、西宮市の鳴尾公民館で当時国宝修理所の所長さんで仏像彫刻家の西村公朝先生・島田先生・その他の先輩の指導で彫刻の楽しさを4~5年の間教えて頂きました。 其れと同じ年の夏、西宮市の今津町で毎週土曜の夜7時~9時迄、柔(柔術)を習い始め、4年間で普門陽心流柔術2段を戴きました。これが、カイロプラクティックを始めるきっかけに成るとは、思いも寄りませんでしたが。
高校卒業後は、カメラマンに成りたくて近江屋写真用品(ハンザ)で働きながら、写真学校の夜学に通っていました。 昭和46年の12月に、待ちに待った兄の手術が阪大の付属病院で、行なわれ兄の看病をしている時に、ふっと思ったことは『将来病院関係の仕事をして人の役に立ちたいと思いました。』
その事は、直ぐ忘れていましたが、後に夢は必ず適うと思う様に成りました。でも兄の、手術は成功したものの術後の感染症で、翌年1月に24才の若さで亡くなりました。(前田家・・2回メの怪談テレビがプッンと切れ、買い替えました。)
私は写真学校卒業後、彩光社で白黒写真の現像の仕事をしながら京都や奈良の寺院・石仏・木像仏の写真を撮っていました。 昭和47年12月29日の仕事収め後、無性に能登半島の写真を撮りたくなり、能登半島一周の旅に出ました。写真を撮り終えて1月3日家に帰り、白黒フイルムを現像して写真を引き伸ばして見ると、二十本中15本の写真がピンボケでした。
そこで、以前コンタクトレンズを合わせてもらった事の在る、心斎橋の岩崎眼科で診察してもらうと、中心性網膜炎(目を酷使した結果、目の底の焦点を結ぶ処の、フイルムの役目をする個所が、腫れあがってピントが合わなくなる病気。)と診断を受け施術を受けましたが、写真の現像をすると直ぐ再発してしまいます。
昭和48年2月に再発を再々繰り返すので、岩崎和佳子院長から『内へ来て、医学写真や学会発表用のスライド作りと、メガネを担当してくれないか。』と誘われました。兄の入院中に思った『将来病院関係の仕事をして、人の役に立ちたいと思った。』事が、其の申し出でを受ける事で、実現する事と成りました!!!!!!!
その後、眼境士・眼科助手(OMA)等の資格を取得し、眼科の検査・眼底写真・コンタクトレンズのフィティング等又は、眼科に代診に来られたドクターで大学の先生方の、学会発表の写真現像の手伝い等、色々な仕事をしていました。
私のカイロプラクティック人生の始まり
昭和57年岩崎院長から『前田君は、柔を習っていたからカイロプラクティックを、遣って見たら。』との一言から私のカイロ人生が、始まりました。
岩崎和佳子院長本人が、ムチウチ症で悩み有名な整形外科・針灸院を尋ねて施術を受けている中で、カイロプラクティック施術と出会い、其の施術効果の素晴らしさに驚き、眼科に取入れ病医院の4階で、外部からカイロの先生を呼んで来て実費で眼精疲労・腰痛・肩こり・頭痛の施術矯正をしていました。
其れまでは眼の疲労に・コンタクトレンズ・メガネ合わせ・ビタミン剤・赤外線温熱療法・等だたものに対しカイロプラクティックを取入れ、色々研究しその結果、眼の疲労だけでなく、全身症状に非常に有効だと言う事が、理解されるにしたがって。 眼科に無関係の人が、多くなり眼科から独立する事と成り。
昭和58年岩崎眼科の隣大宝ビル2階に岩崎院長が、『お医者さんも治せるカイロプラクティック院と成るように!!』との願いを込めて、『ドクターズ・カイロプラクティック』と名付け開業する事に成りました。
平成30年岩崎和佳子先生は、94歳迄来所頂きましたが。車椅子が必要となり来院できなくなりました。長い間のご利用有難うございます。 感謝・感激です!!!!!!!
当初のメインメンバ
H・K先生・・針で筋肉・靭帯の緊張をほぐしてから、左右同じ様に背骨・骨盤を矯正する。(ボキ・ボキと鳴らすカイロ。平成5年頃死去)
仙骨矯正専門の ? 先生・・??Tの創始者・磁気で仙骨を検査し矯正する。(施術中に倒れた為に1年で契約解除。)
M・N先生・・針の免許を持っていますが、カイロ矯正・SOTブロクとマサージを組み合わせて施術します。現在の当院の施術形態を、形造た先生です。(平成9年12月死去)
私(前田)は、院内の諸先生に教えを受けながら
1983年ガンスティットクラブ第一期生として終了
1985年日本カイロ師会認定試験合格(1995年頃円満退会)
1992年日本カイロプラクティックリサーチ協会・DrマークピックSOT国際セミナー3年コース終了
1994年 DCLC基礎講座終了
1995年 塩川スクール神戸校 AOT学部終了
2002 年(平成14年10月15日)岩崎眼科が西心斎橋へ移転すると、同時に大宝ビル2階カイロ室の設備を買い取り、同ビル3階へ移転し同名で開業致しました。
現在は皆様のお陰でドクターズカイロも、地域ダントツ一番の施術院として、自負と過信のもと、たくさんの方に支えられて成り立っています。ドクターズカイロは、此れからも皆様の健康回復の場であります。来て頂いている皆様への責任として、発展、拡大、質の向上と共に気楽に来院できるアットホームな施術院を目指します。
どうぞ末永くご愛顧下さいます様御願いします。
平成20年1月 ドクターズカイロプラクティック 代表 前田 基彦